黒革のロングブーツの下で水音を立てる地面が、昨夜降った大雨のせいなのか、辺りを斑に染める血のせいなのかは分からない。
ただ、道の端、微かに紅く染まった大きな水溜りのその色が、とても綺麗だと思ってしまった。
残光
次第にきつくなる血の臭いを感じる。
道のそこかしこに捨て置かれたゴミや物に時折つまづいて転びそうになりながら、必死に足を前へと運ぶ。
細い路地の角を曲がると少し開けた場所へと出た。
そこに捜し求めていた人物を見つけ、蓮花はその名を呼ばわる。
派手な色柄の着流しに、鉄紺の羽織、右手に血塗れた抜き身の刀を提げ、左手には鮮やかな切り口を晒す死体、剣呑な光を宿す切れ長の瞳は長い緋色の前髪に半ば隠れている。
物言わずに伏せる幾人かの体を挟み対峙する相手――癸は、『狂神』などと称されている双子神の片割れとは思えない整った容貌に、余裕の笑みを浮かべた。
その様をギリギリと音がしそうなほど強く睨みつけながら、蓮花は手にした刃を確かめる。
指先が酷く冷たいのは、緊張なのか、寒さなのか。
数百メートルに及ぶ全力疾走で上がった呼吸が、凍える空気に白く曇るのが忌々しい。
ぞくぞくと背中を駆け上る感覚が、どのような感情に起因するのか、もはや彼女自身にも分からない。
――ただ、眼前の羅刹を斬る。
その一念だけで、ここまで突き進んできた。
ならば、その機に恵まれたこの状況に興奮でもしているのだろうか?
ちらりちらりと過ぎる雑多な思いを隅に追いやり、頭の中を空白に塗り替えていく。
じりじりと足場を確かめながら、一つ二つと呼吸を数えて機を窺う。
吹き寄せる殺気はそのままに、癸が何か呟いた。
その言葉は蓮花まで届かずに、白濁する呼気と共に大気に消える。
「あなたの言葉なんて、何一つ聞く気は無いの」
蓮花は、吐き捨てるように言葉をぶつけた。
面白い見世物でも見るように口の片端を持ち上げて、癸は刀の血糊を振り払う。
重い靴音を立てて、一歩、踏み出した足の下で血溜まりが音を立てた。
ぱしゃん、ぱしゃん、と、その歩みに合わせて音が跳ねる。
ゆっくりと近づく姿をしかと睨み、蓮花は彼我の間合いを測って切っ先を僅かに逸らし、腰を落とす。
そして、ヒュ、と、鋭く息を吸うと、一気に間合いを詰めた。
地面を擦った切っ先が軽く跳ね上がるのに舌打ちし、両手で強く柄を握ってそのまま強引に斬りつける。
幼い頃から剣術を叩き込まれた身は、冷静な思考を欠いても綺麗な太刀筋を描く。
金属同士がぶつかり合う耳障りな音に、小さく火花が散る。
刃毀れなど、気にする余裕は無い。
力比べになれば負けるのは分かり切っているので、鍔迫り合いになる前に一度引き、止めていた息を吐く。
視界の右端に映った銀光に反射的に身を引くと、鼻先を切っ先が走った。
崩れかけた体勢のまま返る刃を受け流し、相手の刃先が壁に当たって止まった隙に横を抜けて向き直る。
出来ることなら今の隙に胴を薙いでしまいたかったが、さすがにそう容易くはない。
斬ろうとした刹那、膨れ上がった殺気に、どうするか考えるより早く地面を強く蹴って距離を稼いだ。
(――あのまま斬りかかっていたら、死んでた)
癸がゆるりと振り返る。
蓮花は、どっと吹き出た冷や汗を乱暴に拭い、知らず詰めていた息を吐く。
更に間を取ろうと背後に足を下ろし、
「!!」
何か不安定な、柔らかいものを踏み付けてバランスを崩した。
たたらを踏んだ足が、また何かを踏む。
更に下げた足は、アスファルトの地面に当たって硬い音を鳴らした。
自分の心音や呼吸がうるさく感じるほど張り詰めた現状で、視線は下ろせない。
けれど、見なくても何だったのかは分かっている。
わざわざ確かめるまでもなく、今だって、目前には幾つも……。
跨ぎ越すのにためらいを覚え、横に避けて立ち位置を変える。
癸はそれを静かに眺めながら、毀れがないか確かめるように刃をなぞった。
さわ、と血生臭く澱んだ空気を微かに動かした風が止んだ直後、蓮花へ向かって踏み込む。
あまりに滑らかで違和感のない動きに反応が遅れ、すんでのところで掲げた刀を大上段からの一太刀が襲った。
重い一閃に腕がしびれる。
間髪入れずに迫る白刃を身を反らすことで辛うじて避け、堪えきれずに膝をついた。
取り落としかけた得物を握り締め、逆袈裟の斬撃を受け止める。
しかし、勢いのまま刀は弾かれ、手元を離れて地面を滑る。
蓮花は思わず、それを目で追い――
「ァ、――ッ」
左の肩口に衝撃。
冷たいような熱いような痛いような感覚が走る。
どくどくと全身が心臓になったかのような混乱の飽和状態で、何も考えられない。
急速に、世界が精彩を欠いていく。
流れ出る血が異様に熱かった。
傾いで空に埋められていく視界が、不意に止まる。
右腕を捕られ、くずおれる身体を引き止められたらしい。
虚ろになっていく意識で、蓮花は己の腕を掴む手を見た。
袖口から覗く手首の内側に、毒々しく紅い紋様が見える。
直線で構成された幾何学模様。
幾度も思い出しては、その度に祈るように憎しみを募らせてきた。
けれど、何か。
ふと、刺すような違和感を感じた。
しかし、それが何なのか考えるよりも、思考が黒く塗りつぶされる方が圧倒的に速い。
腕を強く引かれて上体を起こされ、その勢いのまま抱き止められる。
ほんの微かに涼やかな香の薫りがして、どこか覚えのあるそれに張っていた気がゆるんでしまった。
そして、落ちる間際にようやく気付く。
ああ、そういえば。
あの腕は、右腕ではなかっただろうか――
名前を、呼ばれた気がした。
吐息よりも微かな音で。
けっこう書いたつもりだったんですが、そんなに長くないですね。
何か、バランス悪いなー……
着流しで立ち回りやらかすと、えらいことになります。
ご開帳だぜ、おみっちゃんよ!
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